イントロダクション

ヒマラヤ山脈メルー中央峰にそびえる岩壁“シャークスフィン”。この難攻不落の直登ダイレクトルートに挑んで敗れた3人の一流クライマーたちが、過去や葛藤を乗り越え、再び過酷な大自然に立ち向かっていく姿を描いた、壮大なスケールの山岳ヒューマン・ドキュメンタリー。

ストーリー

ビッグウォール・クライミング――それはリスクも見返りも大きい危険なギャンブル。聖河ガンジスを見下ろすインド北部のヒマラヤ山脈、メルー中央峰にそびえる“シャークスフィン”のダイレクトルートは、クライマーにとって究極の勲章となり得る難攻不落の岩壁。過去30年間、一人の成功者も出していない、もっとも困難な直登ルートだ。手ごわい難所が連なるこの6,500メートルの峻峰は、百戦錬磨のクライマーにとっても悪夢でしかなく、だからこそ挑戦意欲をかき立てる。90キロの登攀具や食料の入った荷物を背負いながら、雪と氷と岩に覆われた1,200メートルのテクニカルな山肌を登攀することは、チャレンジの入口でしかない。真のシャークスフィンが姿を見せるのはその先。それはクラックや足場がほとんど存在しない、垂直にそびえる花コウ岩。450メートルに及ぶ文字通りの“壁”だ。ベストセラーとなった『空へ―悪夢のエヴェレスト』の著者ジョン・クラカワーは言う。「メルーを制するにはアイスクライミングが巧いだけでは駄目だ。高度に強いだけでもダメ、ロッククライミングの技術だけでも足りない。これまで多くの優秀なクライマーたちがその壁に挑み、敗れてきた。それは今後も変わらない。メルーはエヴェレストとは違う。シェルパを雇ってリスクを人任せにはできない。まったく別次元のクライミングなんだ」。

2008年10月、コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークの3人はメルー峰へ挑むため、インドに到着した。7日間のはずだった登山は、巨大な吹雪に足止めされ、20日間に及ぶ氷点下でのサバイバルへと変貌。過去の多くのクライマーたちと同じく、彼らの挑戦は失敗に終わった。難攻不落の山頂まで残りわずか100メートルのところで。
敗北感にまみれたアンカー、チン、オズタークの3人は、二度とメルーには挑まないと誓い、普段の生活へ戻っていく。ところが故郷へ帰ったとたん、肉体的にも精神的にも苦しい数々の苦難に見舞われる。一方、心の中のメルーの呼び声が止むこともなかった。そして2011年9月、コンラッドは2人の親友を説得し、シャークスフィンへの再挑戦を決意。それは前回以上に過酷なチャレンジとなった……。
友情、犠牲、希望、そして人間の奥底に眠る、原始的な冒険心について描いた、壮大なスケールの映像美で綴られる山岳ヒューマン・ドキュメンタリー。

クライマーズ&クルー

登山家やプロの写真家として人生の大半を山に捧げてきた私は、いつも思っていました。高地でのビッグウォール・クライミングの過酷さを、観客の皆さんが本能的に感じ取れるような映画を作りたいと。そこにはどんな見返りがあり、どんなリスクや犠牲が伴うのか、少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。
それと同時に、情熱の追求は必ずしも美しいものではないということも伝えたかった。そこには葛藤や、迷いや、苦しい妥協が溢れている。自身の心に従いながら、他人への責任を果たすことはとても難しい。私もよく自問します。一体どこで線を引けばよいのか、と。
山で映画を撮影する場合、カメラという荷物が増えます。できれば持ち歩きたくありませんが、仕方がない。『MERU/メルー』の撮影中は、2台の小さなカメラを壊さないようにするだけで一苦労でした。
山で撮影するときのルールはシンプルそのもの。撮れるときに撮れ。チームを待たせるな。そして絶対にカメラを落とすな!

とりわけテクニカルで高難度な登山に挑戦することで知られる世界のトップクライマー。過去にはアラスカ北部やバフィン島、パタゴニア南端、そして南極大陸へも足を延ばし、1997年にはアレックス・ロウ、ジョン・クラカワーと共に南極クイーン・モード・ランドにそびえる標高762メートルの岩峰、ラッケクニーベンの登頂に成功。このチャレンジは映像化され、頻繁にコラボレーションを行っているナショナル・ジオグラフィック誌でも特集が組まれた。ノースフェイス社アスリートチームのキャプテンとして、人為的に引き起こされた気候変動の監視役となるようクライマーたちに呼びかけている。モンタナ州立大学リーダーシップ協会、プロテクト・アワ・ウィンターズ、ボーズマン・アイスタワー基金、ガラティン・カントリーフェア委員会、アレックス・ロウ慈善財団で役員を務めるなど、故郷のモンタナ州でも積極的に社会貢献を行っている世界のクライミング界のリーダー的存在。

数々の初登頂や、山をモチーフにした壁画、短編映画で知られる登山家、風景アーティストであり、フィルムメーカー。ヒマラヤの高地からビルマのジャングルまで、作品のためならどこへでも足を運ぶが、中でも軽量のテクノロジーによって、極地での映画撮影の限界を押し広げた功績は大きい。遠征中に制作・配信されたビデオシリーズ「DISPATCH」は、世界中のオーディエンスがリアルタイムに彼らの冒険を体験できると話題になった。ストーリーを視覚的に伝えるそのスタイルは今、ネット上での名声と、有名映画賞の後押しを受け、アウトドア業界の最先端をゆくものとして注目されている。現在は、ジミー・チン同様にジャレッド・レト監督のクライミング・ミニドキュメンタリー「GREAT WIDE OPEN」の撮影に参加している。

テルライド映画祭とトロント映画祭でプレミア上映された『ユッスー・ンドゥール/I Bring What I Love』(2009)、『A Normal Life』(2003年トライベッカ映画祭最優秀ドキュメンタリー賞)、『Touba』(2013年SXSW審査員特別撮影賞)、そして新作『Incorruptible』(2015)など、監督としていくつかの作品を残している。また、独立系ドキュメンタリー監督を支援する「グッド・ピッチ(Good Pitch)」にも参加しており、サンダンス・インスティテュート、フォード財団、ロックフェラー兄弟財団、バーサBRITDOCジャーナリズム財団、ウィリアム・アンド・メアリー・グリーヴ財団、全米芸術基金などから表彰を受けている。プリンストン大学比較文学科文学士号を保有。現在はニューヨークとワイオミング州ジャクソン・ホールを拠点に夫であり、監督のジミー・チンと暮らしている。

コメント

アルパインクライマー
馬目弘仁(メルーサミッター)
3度の敗退。
何がいけないのか?自分自身に何か問題があるのだろうか?これが運命なのかも。そんな思いをなんとか笑顔で繕って帰国した。そんな私を見透かして妻が言った。
「本当に楽しかったの?」と。
今までとは違う信念が生まれた。次こそは必ず登るという信念と、「世界中でフィンを熟知しているのは自分だ」という自信を持っての挑戦だった。
アルパインクライマー
山野井泰史
山々が連なるヒマラヤでも、あれほど美しく魅力的な岩壁はなかなか見当たらないだろう。そこを良き仲間と共に登れるなんて、どれほど幸せなことなのだろうか。映像を観ていたら、「激しく山を登りたい」という気持ちが、自分の胸から溢れ出すのを感じてしまった。今まで観てきた山岳映画の中で最高でした。
アルパインクライマー
山野井妙子
困難なルートの初登頂のドキュメンタリーと聞いて、クライミングシーンが永遠続くのかと思い、実は観る前はあまり期待していなかった。しかし3人のメンバーそれぞれの凄いドラマがあり、涙が出るくらい感動した。

プロフリークライマー
平山ユージ
山への想いは皆それぞれ。この『MERU/メルー』では一人の想いが行動を呼び、一人の夢のために命をかける。それぞれの想いや人生のハイライトがこのメルーの頂上へ向かう過程で硬く重なっていった。『MERU/メルー』は観る者に衝撃を与えるだろう。そして観る者の生きざまを改めて、見つめさせる一本だと思う。
山岳ガイド
花谷泰広(メルーサミッター)
10年前にサミットしたこの山は、まぎれもなく僕の人生を形成した山です。いいことも悪いことも、全ていまにつながっています。しかしこれほど節目になった山はありません。2004年のメルーで大怪我を負った時、あのまま復活できなくても不思議ではありませんでした。それを力に変え、2006年のサミットにつなげることができたのは、大きな心を持った馬目さんという存在があったからであり、快く同行を受け入れてくれた黒田さん、岡田さんという先輩たちのおかげです。
ジミー、コンラッド、レナンの3人のクライマーが、あれだけのクライミングをしながら、これだけの撮影をしたことに心からの敬意を表したいと思います。ぜひ大きなスクリーンで多くの人に観てもらいたい。クライマーだけでなく、山に興味がある人もない人も、すべての人々に。

プロフリークライマー
安間佐千
これでもかというくらいに多くの試練が襲いかかる。もはや可能性はなかった。もう無理だと誰もが思った。それなのに彼らはMERUに呼び寄せられる。コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークはMERUに選ばれたアルピニストだった。人間の意志を超えた、人生の荒波の中で生まれた奇跡の冒険がここにある。
山岳ガイド
黒田 誠(メルーサミッター)
山は、どこに登るかではなく、誰と登るか。
監督/山岳カメラマン/クライマー
ジミー・チン
情熱の追求は必ずしも美しいものではないということも伝えたかった。そこには葛藤や、迷いや、苦しい妥協が溢れている。自身の心に従いながら、他人への責任を果たすことはとても難しい。私もよく自問します。一体どこで線を引けばよいのか、と。